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熊川正雄 略伝4:政岡の人間像

日本アニメの父

 さて、この辺で一度、日本アニメ史に新しい一頁を加え続けた男・政岡憲三について、ざっと触れておく。国産アニメの起源は大正初期までさかのぼり、下川凹天、幸内純一、北山清太郎の3人が先駆者とされる。3人は特に横の連絡もないまま、偶然にも同じ1917(大正6)年、それぞれアニメ処女作を発表した。1898(明治31)年10月5日、大阪市で生まれた政岡は、これに続く第2世代だが、今日では「日本アニメの父」という尊称がすっかり定着している。その由来は、当時貴重品だったセルロイド板の本格的導入、音や声の出る国内初のトーキー動画製作への尽力などにある。日本最初の発声動画の完成は、彼の「力と女の世の中」と大藤信郎の「沼の大将」がほぼ同時とされるが、新しい映像表現に挑む作品を次々と連発した。

 少なくとも、何か一つ新しい試みを仕掛ける。しかも、ほとんど独力で。「一作品一工夫」。これが若き政岡の姿勢であり、信念だった。結果として、流れ作業による集団体制の確立など、和製アニメの製作現場の近代化にも貢献。漫画映画を劇場上映の興行ルートに乗せた。戦前の代表作「くもとちゅうりっぷ」は、洗練された演出と格調の高さが絶賛され、多くの後進を触発。「すて猫トラちゃん」も、戦後の日本アニメ史で真っ先に挙げられる傑作となっている。

 これが彼の功績の概略だが、もう少し人物像を紹介しよう。芸術好きな資産家の家庭で育った御曹司で、生粋のぼんぼん。絵を描き、音楽を学び、能もやる多才多芸の持ち主。しかも映画時代劇の二枚目俳優とくれば、当然女たちに持てたろう。不動産売買や金融を商売とする父・嘉三郎は、活動写真の巡回興行をしていた時期もあり、そんな影響を受けてか長男坊の憲三も映画に興味を持つ。京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)で日本画を学びながら、1925(大正14)年に牧野省三率いるマキノ映画入り。撮影もやったが、瀬川瑠璃之助の芸名で女形もした。

 翌1926(昭和元)年秋になると、呑平プロダクションを設立。実家にあった撮影機材を持ち出し、童話劇「海の宮殿」の自主制作を始める。山陰でロケ中、主演女優が喀血で倒れるが、作品は日活が買い取り、翌年公開された。そして1930(昭和5)年、アニメ映画の第1作「難船ス物語・猿ケ島」の製作に取り組み、異彩を放つ。本人の述懐によると、一念発起の動機は「海の宮殿」が縁で同棲を始めた主演女優・吉野朝子(註5)にあり、彼女の療養費を稼ぐのが目的だったという。

 

(注5)

「日本映画人名事典・女優篇」(キネマ旬報)によると、吉野朝子は本名・関戸かなめ。呑平プロ創立に参画し、室町三千代の芸名で活動。その後、吉野朝子の芸名で日活入りし、代表作は「殺した人」「怨歌行」「愛染地獄」など多数。純日本型美人で、日活時代劇を代表するスター女優の一人だったが、病弱のため引退し、1939(昭和14)年に32歳で病没。時々食事を作ってもらった熊川正雄の記憶でも、「優しく和服の似合う美しい人だった」という。



 

完全主義を貫く

 以後、1950(昭和25)年の事実上の引退まで、ちょうど20年。政岡憲三は戦前・戦後にかけ、独特のカリスマ性を発揮しつつ、疾風怒濤のごとく日本アニメ界を牽引した。彼の影響を受けた門下生たち、すなわち瀬尾光世、熊川正雄、桑田良太郎、藪下泰司、森康二らも、それぞれ多くの傑作を生み、業績を残した。
《個性が強く、凝り性。自分の流儀にこだわり、仕事となると一途な完全主義を発揮。手抜きを嫌い、融通が利かない。わき見を一切しない非妥協精神の持ち主。作品に流れるのは「愛、ロマン、情緒」といった叙情的な美意識で、カネに糸目をつけず、ひたすら芸術至上主義を貫こうとする》

 これが門下生らの目に映った政岡像である。凝り性と完全主義は別物だと思われるが、それはともかく、単なる神経質と違って親分肌があり、むしろ勇猛果敢、豪放磊落な一面さえある。それでいて作品は抒情性にあふれ、繊細な感性をうかがわせる内容。その画調の痕跡を引き継ぎ、愛嬌のある動物キャラクターに定評のある森康二(註6)の回想によると、政岡は確かに仕事の上では厳しく、大声で怒鳴る。しかし、その反面茶目っ気もあり、作品の完成祝いで神主の衣装をまとい、自分で祝詞をあげたりした。

 熊川正雄の記憶では「ギャングと踊り子」(1933年公開)の製作の際、政岡が「ダンスができなきゃ絵は描けない」と専門講師を招き、わざわざスタッフ全員に習わせた。「烏の保険勧誘員」(1940年公開)を手がけた時は、ナマズの大将が跳ねて水に落ちる場面のアフレコで、大樽に水を満たし、石を落としてみるが、今一つ音に迫力がない。「こんな音じゃ駄目だ」と政岡自身が裸になり、上からドボーンと飛び込んだ。逓信省による簡易保険の宣伝企画だったが、政岡は納得のゆくまで何度も繰り返し、その音を採録した。二つとも凝り性の好例だが、どこか牧歌的な、ほのぼのとしたユーモアの漂う逸話である。

 ちなみに政岡が吉岡朝子と別れ、1934(昭和9)年に結婚した綾子夫人(旧姓・木村)は「雀のお宿」(1936年公開)で脚本を書き、「べんけい対ウシワカ」(1939年公開)では声優も務めた。いずれも政岡一門の仕事だが、「かんがるうの誕生日」(1941年公開)の原作者でもある。想像の域を出ないが、彼女が当時、仮に作画のお手伝いもしていたなら、「国内初の女性アニメーター」だった可能性もある。

 

(注6)

森康二(1925~1992)は鳥取市出身。著書に自伝「もぐらの歌」があり、この中で感動を綴っている。東映動画の初期の作画部門で、森は大工原章と並んで指導的な役割を果たし、新世代の宮崎駿、高畑勲ら多くの後進に濃厚な影響を与えた。退社後は日本アニメーションに移籍。TVシリーズ「フランダースの犬」などに携わり、絵本作家でも活躍した。



 
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